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古武弥四郎/YouTubeまとめ

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古武弥四郎(こたけやしろう、1879年7月12日–1968年5月30日)は岡山県出身の生化学、医化学者。
旧大阪府立高等医学校卒業後、京都帝国大学荒木寅三郎の門下となる。のち大阪大学大阪帝国大学医学部教授。退官後県立和歌山県立医科大学の設立に参画、同学長。帝国学士院賞。文化功労者。勲二等旭日重光章。アミノ酸、特にトリプトファンの中間代謝の研究で知られる。和歌山県立理科短期大学の学長にも就任した。
古武弥四郎の研究経歴をみると明治43年(1910年)から2年間のドイツ留学が一大転機となったことがわかる。当時のドイツはヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)ウィルヘルム2世の統治下にあるドイツ帝国で、弥四郎が滞在したケーニッヒスベルクはその東端のバルト海沿岸の町であった。第一次世界大戦でドイツは敗戦し、この町はロシア領となり、ロシア革命後カリニングラードと改名された。ケーニッヒスベルクは「純粋理性批判」で知られる哲学者イマヌエル・カントが生まれ育ち、一生に一度も離れなかった町である。カントはこの町では「歩く時計」として有名で、定刻にきまった場所をあるくところを見てまちの人々は時計を合わせたという。弥四郎もまた時計の奴隷とおもわれるぐらい時間を守る人であったが、カントにならったのかどうかはわからない。ケーニッヒスベルク大学ではマックス・ヤッフェ教授の教室にはいったが、これは荒木寅三郎の紹介であった。荒木とヤッフェはホッペーザイレルの同門である。実験研究はおもにエリンゲル、クノープ博士とおこなった様子である。そのころのドイツ生理化学会誌(”ZeitschriftfurPhysiologisheChemie”)には弥四郎が同教室でおこなったチロシンの中間代謝に関する一連の論文がみえる。当時のドイツは合成および分析有機化学の勃興、最盛期にあり、アドルフ・ヴィンダウス、ハインリッヒ・ヴィーラント、リヒャルト・ヴィルシュテッターといった化学史上に名を残した人たちが活躍していた。その分析的実験手法が弥四郎のドイツでの研究に影響したことは想像に難くない。

Wikipedia_2009.01.17